価格理論に法人税を含めるというアイデアと、「I=S」という恒等式の「I」を公共投資とすれば、銀行ユニット(の信用創造の仕組み)を含めなくても、循環を記述できるだろうか。
このように問題提起をしたところで、以下は、その回答ではないのですが、徒然なるままに。
貨幣量を変えずに、毎ターン同じ取引を行い循環するような状態を、平衡状態と呼ぶことにしよう。人口も増減するので、ひたすら平衡状態にあるという説明は、現実的ではないことは明らかである。しかしながら、ここでの物語のように循環を説明する時に、平衡状態が存在するという説明ができると、どこかしら安心した気持ちになれる。
ようやく、神の見えざる手が見えてきたでしょうか。
我々が貨幣を使用して、生きる営みを行うことは、いかようであれ、循環の中で行っている行為である。
ユニット間で時間軸に沿って緩やかに調整される事はあるにせよ、設定された商品価格・賃金(あるいは老後の年金も)を都度都度のタイミングで、それぞれが受け入れる決定をしている。
価格を設定する側がどれ程の水準にするかについて、利益を上げるために希望する価格と、それを受け入れる者の存在の有無を考慮して、ある程度で妥協できる水準に折り合いをつける。
価格を受け入れる側は、例えば家計の話をすれば、家族構成が異なっていたり、受け入れてよいとする条件も異なる。それぞには立場もあれば、受け入れてよいとする信条も異なるかもしれない。
とにもかくにも、このようにして、我々は存在しているし、循環する構造があってその土俵で生活している。この土俵の呼び方のひとつを資本主義社会と呼ぶようである。
これと対比することで、公共投資「I」を行う貨幣流通者の権限が強く、決定を市場に任せないような社会も構造を説明できるであろう。
神の見えざる手とは、西遊記のお釈迦様の手のひらでしょうか。
神様か仏様か。。神様にも仏様にも失礼があってはいけませんね。
アダム・スミス先生は、西遊記をお読みになったことがありましたでしょうか。
(この物語では宗教のお話は扱わない事にしております。)
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